私の好きな「ちゃんと」という言葉について

Sunday 12 April 2020

その他 学校教育

 私は生徒に説諭するとき、「ちゃんと」という言葉を自然に使います。同様に、「しっかり」とか「きっちり」という語も同じ感覚で使います。こういったいわゆる大和言葉の類は、あたかも先天的に私の脳にインプットされていた言葉であるかのように、私の肌感覚に染み付いたもので、つい使ってしまいます。語源は諸説あるようですが、ヘルシンキで言語学修士課程を修められた方のブログによれば、「ちゃんと」「しっかり」「きっちり」の由来は古代中国語にまで遡るそうです。つまり、それだけ昔から日本人が使ってきた言葉らしいのです。しかしながら、こういった言葉は、目標志向の世界、ネオリベ時代には好まれません。言葉の意味が曖昧だからです。私は初任者で、「学級経営案」のレポートを提出した際、こういった曖昧な言葉を全て具体的な事項に変えなさいと校長先生に言われました。例えば、「授業をちゃんと受けられるクラスにしたい」というところで、「ちゃんと」ととは具体的にどういうことか、と。もちろん言われた通り修正しましたし、確かにあとでできたかできなかったかをチェックするには具体的な事項でないといけないなと思いながら、どこかもやもやしたものがありました。
 
 そのもやもやはなんだったのかというところが今回のテーマなのですが、一言で言えば、「日本語の無界性」と「パフォーマンス評価」から生じる違和感です。

日本語の無界性について

 斎藤伸治(2003)によれば、日本語を全体的に特徴づけている1つの方向性、日本語を母語として生まれた日本人に、初めから刷り込まれたある感じ方、日本人の思考様式、世界観に強い影響を与えているのが、この日本語のもつ「無界性」という特徴です。日本語においては、経験が言語化される際、輪郭を不確定に捉える傾向があり、ことさら正確さをあえてぼかすような表現が多いといいます。「3つばかり」「2つほど」「などと思う」という例があげられています。こういう曖昧さが好まれるのは、日本語全体に連続体のスキーマがあるからだということです。本紀要論文に、こうあります。

また、イザヤベンダサンは、『日本人とユダヤ人』の中で、日本語のコミュニケーションにおいて重要なのは,言葉そのものではなく,むしろその言葉を発した 態度,語調,礼儀なのだと主張し,次のように述べている(ベンダサン1971:230)。

母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合,明晰かつ透明(英語ならクリアー)に 言えということではなく,発声・挙止・態度が模範通りであれ,ということである。だが,クリアーということは,原則的にいえば,その人間が頭脳の中で組み立てている言葉のことで,発声や態度,挙止とは全く関係がないのである。

つまり,日本語は,発話される状況や文脈だけでなく,その時の話者の態度などとも緊密な関
係にあり,場合によってはそれら非言語的な要素と区別することができない。これも,連続体
のスキーマの反映とみることができ,個体のスキーマが反映される英語とは一貫した違いを示
しているのである。   

 つまり「ちゃんと」という言葉の意には、単に表面的なもの(ここでは目標数値で測れるもの)ではなく、もっと深い精神性まで含められているのです。だから私はこの「ちゃんと」という日本語が好きなんです。

 パフォーマンス評価について
 

本書には「教えるのは大好きだが、テストの結果を伸ばすことを目標としたカリキュラム統制が進むにつれて、教育への情熱が吸い取られていく」と語る教員が登場します。そう、教員というプロフェッショナルは、目に見えないものを教えていることに誇りを感じているのです。このような教員に対するパフォーマンス評価は、教員の士気を下げ、教育の質の低下を招くことに繋がりかねないといえます。

 この新自由主義に適したパフォーマンス評価という道具がどうしても好きになれない自分がいるんですね。


  まとめ

 決して、パフォーマンス評価や具体的に目標数値を書くことを否定しているわけではありません。しかしながら、日本人として、「ちゃんとしよう」「しっかりやろう」「きちんとしよう」といった言葉が通じなくなる、そして使われなくなるのはなんとも悲しいことのように思えてしまいます。


参考: