レビュー『孔子』井上靖

Saturday 8 February 2020

書評


「この一年間、自分について、天命とは何か、そのことばかり、考えづめに考えたが、最近、漸く、結論に達した。天には、上から見ていて貰うだけでいい。人間は自分が正しいと思うことのできるものを、自分の仕事にすればいい。天命などというから難しくなる。自分が、心を素直にし、その素直な心で、正しいと思うことのできるものを自分の仕事とすればいい。成功するか、しないか、そんなことは誰にも判らない。しかし、失敗しようと、そのために苦労しようと、救いはある。正しいことをしているからである。
 
 正しいことをしていると言っても、そんなことは誰も知らないではないか。そう言った奴がある。愚かな奴である。誰が知らなくても、天が見ているではないか、こう言ったら、天は見ているだけではないか、そう言った。愚かな奴である。天は見ているだけではない。黙っているが、嘉してしてくれているのだ。」(P.171)

「天命を信じて人事を尽くす。人事を尽くして天命を待つ。このいずれかを採るべきか。このところ毎日のように考えている。誰かに教えてもらいたい。」

「『五十にして天命を知る』というお詞の意味は、ご自分がなそうとしていることに、天の使命感をお感じになったということが1つ。それから使命感を感じた以上、当然なこととして、大いに努力はするが、いくら使命感を感じようと、いかにそのために努力しようと、そのことの成否となると、それは、また、別問題である。成功するかもしれないし、成功しないかもしれない。すべては天の裁きに任せる他はない。」(P.184)

「人間が為すことは、それがいかに正しことであれ、立派なことであれ、事の成否ということになると、全てを天の裁きに任せなければならない。1つの仕事の遂行に当たって、天からいかなる激励と援助を受けるかもしれないし、いかなる支障と妨害によって、行く手を阻止されるかもわからない。こうしたことは、大きい天の計らいであって、小さい人間の理解し得るところではない。併し、そうした中にあればこそ、人間は常に正しく生きることを意図し、それに向かって努力しなければならないのである。そうした人間を、必ずや、天は嘉してくれるに違いない。嘉すとは、天が、よし、として下さることである。天が嘉してくれるのであれば、人間としては、それでいいではないか。それ以上のこととなると、天にしても、手が廻りかねるというものである。天の下、地の上、そこでは四時行われ、万物生じている。四季の運行は滞りなく行われ、万物はみな、次々に生まれ、育っている。天の受け持たなければならぬ仕事は大変である。それ以上のことなると、手が廻りかねる。人間が天に対して、何を望み、何を期待しても、無理というものである。」 

「長命、富貴、栄達は、望んでも来るものではないが、来る場合は、知らないうちに、天が置いていってくれている。いかなる場合もに置いていってくれるか、これは判らない。天の気まぐれであるかもしれない。いずれにせよ、長命、富貴、栄達といったものは、そのようなものである。(p.196)
「人間は生まれてきたからには、これをやったら立派だと思うところを、一つやるべきであるが、ただ、その場合、何をも言わず、黙ってやるべきである。つべこべ言わずに黙ってやれである。天は天で、大きな仕事をしているのに、いつも黙っているではないか。何も言わない。その天が何も言わないで、人間がやっていることを、上から見てくれている。己が正しいと思うことを、黙ってやっている人間、それを黙って、高いところからみている天。お互い何の口出しもしない。これでいい。これでいいではないか。これで十分。このほかに、何をいうことがあろう。」(P.197)

「人間は大きな天の下で生きている。もっと正確な言い方をすれば、生きさせて貰っている。生きさせてもらっている以上、天の心に副って生きなければならぬ。天は何も言わないが、その心を理解し、その上で生きなければならぬ。人間が心を虚しくして、一切の邪念を払えば、天の心は自ら見えてくるはずである。〜誰かに礼を言わなければなりませんが、その相手は、心を虚しうして考えてみれば、自分の頭の上に拡がっている天以外にはなさそうであります。」 

感想

  「一番好きな作家は誰か」と聞かれれば、おそらく私は「井上靖」と答える。彼との出会いのきっかけは、中学受験の国語の問題だった。彼の幼少期の記憶を語る『しろばんば』は非常に面白く、塾テスト後、レファレンスを確認して、「井上靖」ということを知った。それから、受験勉強をひとまず置いて、『しろばんば』に続く幼少期から青年期くらいまでの彼の自伝的小説を全て読み尽くした。感受性の強い小学生の頃に読んだから、彼のものの見方や考え方が私に大きな影響を与えているのかもしれない。

 さて、『孔子』は彼の最後の長編であるという。架空の弟子篶薑が、孔子の死の33年後に「孔子勉強会」なるものに参加し、これから『論語』ができていく、そんな状況のことが描かれている。

 上に挙げた部分は、孔子の有名な詞、「五十にして天命を知る」の意味を、篶薑を中心に論じているところである。秀逸である。ここに表される思想は、カラマーゾフの大審問官を打ち負かす、日本人の秀でた宗教観とさえ思っている。これは、井上靖氏が長く生きてきて、最終的に辿りついた「天命」に対する考えであろう。私は彼の「天」との関係の考え方が好きだ。正しいと思うことを、人生をかけて取り組む。その成否は関係ない。天が嘉してくれればそれでいい。天に求め過ぎない。
 西洋の「神」というより、「天」の方が私にはしっくりとくるのである。「愛」より「仁」の方がしっくりくるのと同じように。