読解力とは「情報を正確につかむこと」でいいのか

Wednesday 1 January 2020

その他 学校教育

 PISA2018の結果において、日本の「読解力」ランクが参加国中で15位と大幅に順位を下げたことが話題となった(2015年度は8位)。しかしそもそも日本の国語教育が行ってきた読解力とPISA型の読解力(アルファベット文化、(もしくは表音文字文化)の読解力)は違うのに、それを一律でPISA型の土俵で戦うのはなかなか厳しい戦いになるのは当然なように思える。さらにいうなら、必ずしも、無理してPISA型の土俵で戦おうとしなくてもいいのではとも思う。(ちなみにPISA型の読解力は、課題解決型の総合言語力であり、情報を読み取って書く力まで求められているのだが)

 まず、言葉に対する感覚からして、日本と欧米は異なる。日本では言霊信仰というように、言葉には魂が宿っていたと考えられていたという。そして今でも、その感覚は残っている。例えば、相手の意見を批判しようとするとき、何となく批判することがためらわれる。その人間から発せられた言葉は、その人間そのものなので、その発言を否定することは、その人間を否定するかのように感じてしまうのである。だから、「授業のディスカッション」という枠組みの中では、「相手の批判をする」という前提があるので批判できるのだが、より個人的な人間関係においては、なかなか相手のことを正面から批判はできないのである。

 一方、PISA型の読解力ときいて、もしくは最近の英語の試験でもそうだが、求められているのは「論理力」であり、そこに感情の余地などない。簡単にいえばいかに正確に「情報を読み取れるか」ということが重視されているように、私には感じられる。この「情報」という単語は、もともとは明治時代に作られた造語で、「敵情を報知する」というフランス語の訳語だという(wikipediaより)。だからか、とても無機質な感じがしてしまい、自分の中の「読解力」とリンクしないのである。そもそもこの「情報」という単語は、「情」と「報」から成る。本来の漢字の意味なら、「情」は心、感情が元の原義であり、「報」は訓読みの表すようにむくいるという意味である。つまり、情報とは本来であれば、「心(情)が動かされた報い」に得られるもののはずなのである。

 日本では、小中学校の国語の授業では、物語をよく扱い、主人公の心情を読み取る問題がだされる(一方日本の英語の授業では説明文ばかりだから、面白みがない、頭に言語としてすんなり入ってこないと感じるのは自分だけだろうか…)。そこにはやはり言霊信仰の名残があるように思う。この、言葉から人の気持ちを読み取る力は極めて重要な力であり、日本人の国語力の根幹にあるものである。だから、今回のPISAの結果を受けて、無理して物語を減らして説明文を増やす流れは少し安直な気がする。国の政策がぶれずに、感情読み取りと論理の両方をバランスよく鍛えていく方向に進むことを願っている。