レビュー『ことばの教育を問いなおす』鳥飼玖美子、苅谷夏子、苅谷剛彦 共著

Monday 9 December 2019

学校教育 書評 英語教育

 たまたまアマゾンで予約販売しているのを見つけて予約していたのが届いた。著名な3人の専門家の対書ということ、そして大村はまが1つのテーマとなっていたのに惹かれて注文した。

 本書では、私が最初期待していたような、大村はまの実践を英語の授業でどう生かすかというような現場の教師が明日にでも使いたくなるようなことはあまり書かれていない。むしろもっと本質的な意味でのことばの教育についての議論がなされている。

 「はじめに」において鳥飼先生が述べておられるように、本書は「対書」という形式で構成されている。そういえば、昭和くらいの頃は、雑誌などで対書で議論が交わされていたというのを聞いたことがあるが、そういうのは最近はあまりない。本書を読んで、内容が予定調和なく展開するのが新鮮に感じた。これからこの対書形式が再び脚光を浴びる可能性を感じた。授業にもとりいれられるか検討してみたい。

 本書を読んでいろいろ興味深い考えを知ることができた。個人的に面白かったのは、苅谷夏子先生の章で、オクスフォードで日本学を修めたアメリカ人の若者の話である。彼は物事を考える時は日本語で考える方がより早く、深く考えられる、英語で考えるとフレーム思考なので、決まり切ったアイデアになってしまうということだった。非常に示唆のある言葉だ。別のところで、大村はまの実践を理論化できないかという鳥飼先生の問いかけがあって、演繹と帰納の話がでてくる。日本語は本質的にいわば帰納的(個別的事象から一般化へ)に考えるのに適していて、英語は演繹的(理論から実践)に考えるようにできているのではないかということだ。ここで私が思い浮かべたのは、日本がアメリカに太平洋戦争で敗れたことであった。これは確か『失敗の本質』という名著にもかかれていたことかもしれないが、1つ1つの戦果から勝利の理論を突き詰めていったアメリカに対して、精神論で攻撃を続けた日本が負けたのは必然だったのかもしれない。そしてこれらの考え方の違いは言語からきているのかも、と考えるのは興味深い。さらにいうと、演繹的(トップダウン)な旧約聖書的な神(新約聖書のイエスはたとえを多用しているところからどちらかというと帰納的にみえる。旧約と新約の神は同じではあるが。)と帰納的な日本的な神との違いとも関係があるのかもしれないと思った。
 
 話が飛んだが、英語教師の自分がこの本を読んで触発されたことは、

・苅谷剛彦先生のいうような、抽象と具象をいったりきたりさせることで思考を深めるような活動を中学の英語の授業に取り入れられないか
・大村はまが実践家として、「はま式」のような流派を作るのではなく、「理論や制度に依る以前に、とても原初的な人間くさいやり方で人を育てた」とあるように、自分も実践家に徹していきたい

ということである。