現代は訓練を忘れた時代である。

Saturday, 14 December 2019

学校教育 書評

 このことばは、『人生の訓練』(Vレイモンド・エドマン)という本の「はじめに」に書かれていたことばです。その部分を引用します。

 はじめに
 現代は訓練を忘れた時代である。昔から守られてきた人生に置ける訓練の道はくずれ、そのために、社会を支える大切な基盤がぐらついている。家庭における訓練、すなわちしつけも、「親は子に従え」式の新しい考え方のために、姿を消そうとしている。学校における訓練、すなわちきびしい教育方法も、子供に上からの意思を押し付けることは、人格の正しい形成をゆがめるものであるという進歩的教育法の影響で、次第に行われなくなってきた。
 
 この言葉は、最近の自分によく響いたことです。
 
 訓練はまるで、本人の創造性を奪い取るもので、同じことを繰り返し練習しても生産性がない、と考える人も増えてきているようですが、私はそれは正しいとは思いません。ここで使っている「訓練」と似たような言葉で「躾」という日本語があります。漢字が示すように、しつけとは「身を美しくさせる」ことなのです。今まで自分がみてきた教員やその他指導者の中で、優れた功績を残されている方はみな訓練、躾を大事にしていました。ただし、優れた指導者が他の人と違うのは、その徹底さ、そしてそれが成果につながるという確信です(成果とは、言い換えれば、生徒がよりよい人生をおくるということ)。確信していて軸がぶれない教師には、自然と生徒を従わせるような威厳が備わります。だから普通の指導者が、数回訓練して生徒が飽きてしまうのを避けるために表面的にできれば次に行ってしまうのを、成果を残す指導者は骨の髄に染み込むまで徹底的に繰り返しさせることができます。そしてそのような繰り返しをさせるにはもう1つ秘訣があります。それは繰り返しやらせる中でも、意識を向けるべきところを変えることです。偉大な指導者は間違っていることを1つ1つフィードバックして、意識をそこに向けさせることで、進化を促します。

 私は剣術を嗜んでいますが、日本古来の芸道の指導法として、守破離という考えがあります。守って型につき、破って型へでて、離れて型を生む、という考えです。どうしても現代は創造性を求めて「守」の部分を軽視してしまいがちですが、昔から続けられてきたこの守破離の考えのもと、成果をだせる指導者になりたいと思います。