エビデンスから考えるシリーズ:宿題って意味あるの?①

Sunday 15 September 2019

学校教育 書評

 教員をしていて最近特に違和感を感じることがある。 宿題に関してである。アメリカでは宿題の効果に関して大論争になった。日本でも、例えば最近メディアによく取り上げられる麹町中の工藤校長が、「宿題は無駄」として全廃をしたという。しかし工藤校長の発言から、「宿題は無意味」と鵜呑みにして、何も考えずにただ宿題を廃止している教員、学校が俄かに増えているように感じる。私は公立中学校や、進学校などで働いてきた。宿題について、現場で肌感覚で感じることを伝えていきたい。

 ちなみに先述の工藤校長のことだが、麹町中という千代田区の公立中学校において、"公立らしからぬ"革新的な改革を行なっていらっしゃる素晴らしい校長である。私は先生の本『学校の「当たり前」をやめた。』を読み、とても感銘を受けた。特に、「学年担任制」の導入や、「手段の目的化」、「当事者意識」などの考えは、現在の学校教育の問題点を的確に突いていて、その慧眼と実行力には恐れ入った。私は工藤校長のファンになり、座談会まで聴きに言ったほどである(笑)。




 そんな工藤校長が宿題を撤廃したということで、「ああやっぱり宿題は意味がないんだ」と言って、多くの学校で宿題を出すことを控える風潮が感じられるのだが(私的には)、それは間違っていると思う。工藤校長が間違っているのではない。それを鵜呑みにして、何も考えずに宿題を無くそうとしている態度が間違っているのである。

 まず工藤校長は宿題を廃止するということを単独で行なっているわけではなく、「自律」を重んじたカリキュラムの1つとして、単元テスト制や生徒主体の行事などとセットで取り入れている。確固とした理念のもとで一貫したカリキュラムがあって、初めてこの宿題廃止の効果が出てくるものと思われる。

 ネットをみていると、「麹町中という名門校であり、優秀な生徒だからできていることだ。おそらく放課後は塾に通わせているだろうし、非認知能力に関しても高いだろうから、それは学校の宿題がなくなれば喜ぶ生徒は多く、それでも成績は高いまま維持されるんだ。そんないい学校だから、工藤校長はそんなことができるんだ」というような批判がある。この意見は正しいところもあれば、間違っているところもある。確かに麹町中学校といえば、かつては麹町中ー日比谷高校ー東大といくのが公立の王道コースであったほどの名門中学校であり、本校がある千代田区の家庭の所得額は今でも日本一である。そんな環境で育った生徒であるから、学校の宿題のあるなしで成績が大きく変わらないのも事実なのかもしれない。一方で、だからといって工藤校長の改革を否定することは間違っている。工藤校長は一学校の校長先生であり、日本全国の全中学校のカリキュラム責任者ではない。麹町中の生徒たちにとって良いと思うことを考え実践されたのであり、それが全中学生にあてはまるとはかぎらない。

 ただあえて、工藤先生の考えに恐れ多くも物申すなら、自律的に学ぶ姿勢が重要なのは分かるが、全ての生徒が初めから自律的な姿勢を自らの力で求められるほど優秀なわけではないということである。中には、初めは教員にいわれるままにやっていたら、次第に自律的にとりくむことになることだってあるし、それは決して希少なケースではない。

 ベストセラーになった『影響力の武器』という本に面白い研究のことが書かれている。

省エネを各家庭にお願いするため、実際に省エネできたら新聞に載せると伝えた。すると予想通り、省エネ家庭が増えた。その後事情があって新聞に載せられなくなったと伝えた後も、省エネに以前より熱心に取り組んでいた。それは、もともと「省エネをせねば」という思いがあったが、実行できていなかったから。そこでえさほしさにでも一度実行すると、自分のなかで新たな価値(気持ち良さ、生活習慣の改善等)が感じられ、えさがなくても続けられるようになった。





 というものである。学力の低い生徒は、そもそも学習の意義がわからない子が多い。そんな子に、「自主性」や「自律性」を説いてもあまり効果がないように思う。全ての学習が魅力に溢れているわけではないし、生徒の意欲を掻き立てるのは教師の仕事だといえども、中には単調な、それ自体にはあまり面白みのない、しかしながら基礎的事項として大事なものがある。そういったものを普通子供はやりたがらない。しかしそれをそのままほっておけば、できる生徒との成績格差がさらに広がり、劣等感が強まり、結果、学習から遠ざかることは目に見えている。それを自己責任という言葉で、子ども自身の責任にするのは少々残酷ではないか。
 
 また、工藤校長は以下のように言っている。

もし、それでも宿題を出したい先生がいるのなら、生徒たちに「すでに十分にできる問題は、やっちゃダメだよ。よく分からない問題に頑張ってトライしてくるんだよ」と伝えるべきだと思います。繰り返しになりますが、学習は「できない」問題を「できる」ようにするプロセスでないと、意味がないからです。(出典:なぜ宿題は「無駄」なのか?――“当たり前”を見直した公立中学校長の挑戦 (4/4)

 これはある程度地頭のある子どもにとってはそうかもしれないが、普通の生徒であれば、十分にできたと思っていても、ちょっと出題形式が変わるとできなくなることはありうるし、私が担当する英語のような技能教科では、「分かっている」だけの状態からスムーズに「使える」レベルに持っていくためには、既知事項の反復練習が欠かせない。これは中学校3年間の授業420時間の中だけではとても無理である。例えばアメリカにホームステイしたとして、1日12時間英語に触れたとしても、35日間である。これだけで英語が話せるだろうか。ならないだろう。しかし、単純に1日1時間の家庭学習をすれば、365日×3年間で=1095時間、授業数と合計で1515時間になる。こうなると126日、つまり約4ヶ月である。まあ4ヶ月ホームステイすれば、ある程度はコミュニケーションに慣れてくるだろう。こう考えると、家庭学習の重要さが理解できるだろう。


 だから、教員は、生徒にまずはこうやるんだと、ある程度の強制力をもって宿題に取り組ませることも時には必要があるのだと思う。はっきり言って、宿題を出さないということは、それをチェックする時間が省けるという点で教員にとっては有難いことであるが、本当に生徒の学力をつけたいと思う教師であれば、しっかり家庭学習での課題(自主課題も含めて)を出すはずなのである。
 
それではどのような宿題の出し方が効果的なのか。宿題の研究で有名なCooperの論文を参考に次回考察していく。