この文章を書こうと思ったのは、休みの日にふと心に刺さったことを書いた時、それが自分の脳に刻まれた感覚を感じ、改めて手で書くことの重要性を認識したからである。そして、教員として、手で書くことを疎かにしてはいけないことを実感した。
最近気づいたことだが、文房具に必要以上に価値を見出している生徒が増えている。これまで中学校で10年以上働き、定点観測してきたわけだが、特に最近それを強く感じている。子供たちの間で、自分の持っている筆記具を見せあったり、好きな筆記具の話で盛り上がったりしている。中には、筆箱の中身の総額が数万円という強者もいて、落としたらどうするのだろうかと心配させられる。日経新聞の記事によれば、矢野経済研究所の二〇二四年の調査では、少子化が進行する中でも、高機能・高付加価値化により、シャープペンシルの市場規模は増えているらしい。SNSでは、ユーザーが筆記具を評価する動画が多数投稿され、文房具主要メーカーも積極的に情報を発信しているということだ。
なぜこのような筆記具人気現象が起きているのだろうか。様々な要因が考えられるが、その一つに、学校でのタブレット導入の影響がある気がしている。二〇一九年に端を発するコロナ禍により、それまであまり進んでいなかった学校のICT化がトップダウンで急速に進められ、瞬く間にタブレット一人一台の政策が実現した。教員や保護者の中には、タブレット学習に対して懐疑的な声もあったが、状況が状況なだけに、いかにそれを授業で活用しようかと試行錯誤した。やがて学校によっては、生徒に、紙のノートかタブレットか状況に応じて選べる自由が与えられるところも出てきた。そのような状況の中で、筆記具に、よりこだわりをもつ生徒が増えているのだが、私の思うに、それは、大人より感性の鋭い学生らは、本能的に、日本語を書くという行為の価値、効能に気づくようになっているのではないかということである。
そもそも、書くという行為は、極めて脳を活性化させる活動である。何を書くのか、どこに書くのか、何で書くのか、どのくらいの文字の大きさにするのか。綺麗に書くことを重視するのかそれともスピードを重視するのか。そして、ひらがなカタカナ漢字のうちどれを使うのか。これらのことを総合的に判断し、実行していく。特に、最後の二つ、文字に対する美的な感性と、異なるタイプの文字を状況によって使い分けることの両方の特徴をもつのは日本語特有であり、書くだけで、感性や知的能力が鍛えられる。先人が残してくれた「日本語を書く」という遺産を、あっさりと手放すのはあまりにも浅はかである。文字をタイピングするという画期的なアイディアを生み出した人々は、アルファベット言語を操る人々である。その技術にどれだけ助けられているかを感じつつ、日本人の強みを磨く、日本語を書くこと欠かさないように心がけていきたい。
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