あなただったらどうしますか。
中学校で自分が顧問をしているサッカー部の2年生の生徒が、美術の時間に非常勤の教員に対して暴言を吐きました。その教員がその後他の教員もいるところで、「自分の悪かったところもあった」と言って一歩引いてくれたのに、この生徒はすぐ謝ればいいものを、自分が悪かったのではないと意地をはり、謝りません。この生徒は、知能検査でひっかかりはしないもののギリギリの子です。普段の態度もそれほどいいものではありません。しかしサッカーに対しては真剣で真面目に練習に取り組み、普段の様子とは見違えるようです。
さあ今週の日曜には大事な試合があります。
対応①:罰として、試合には出さない。
対応②:悪かったことを納得させ、謝らした上で、試合には出す。仮にどうしても謝らなければ、教員(顧問の自分、もしくは担任)が謝り、この生徒には「雑用」をさせて、罰とし、そこで指導を切る。試合には出す。
これは実際に私が経験したことです。私は対応②でいこうと思いましたが、もう1人の私よりも1つ下の顧問は対応①でいくのが当然だということでした。ちなみに、偶然にもほぼ同じような状況を前年度に他校で経験しており、この時は自分が副顧問でしたが、暴言を吐かれたのは何を隠そう私自身でした。そのとき私は対応①をとろうとし、年配の教員は対応②だと言って、私はどうしても納得できず、遺恨が残った経緯があります。
さて、どちらの対応がいいのか、それは状況によるでしょうし一概にはいえないかもしれません。しかし、なぜ私の考えが一年で変わったかというと、前年の指導後、試合の後、その生徒が年配教員につれられて素直に謝りに来たからです。そのとき、教師として「許す」ということの重要性を認識しました。
今回の件では、もう1人の顧問がよりその生徒との付き合いが長いことから、その教員の意見の対応①でいくことを私は受け入れました。そしてその暴言を理由にメンバーから外しましたが、腐らずに試合の日にはサポートに徹しました。
しかしこの対応②で正しかったのか。私は担任の教員と話しました。担任の女性教員は、「活躍できる場が他にあまりないので、その場を奪わないであげてほしい。」ということでした。私もそれに同意し、お掃除当番くらいの罰で指導を切ってやらないと、間違った方向に進む可能性があったねと話しました。そしてあらためて許しと罰について考えたのです。
許しが産んだもの:相手が自分を許してくれたという感謝のような思い
罰が産んだもの:なんで自分が罰せられるのか納得いかないが、サッカーはやりたいから
仕方ない。
教員は精神的にきついです。それでも、人としての成長を願うなら、「許し」を与えることの方が大事なんだと今は思います。
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