第1回:熱狂 1937-40
第2回(8月3日放送):収奪 1941-42
第3回(8月10日放送):敗走 1942-44
第4回(8月17日放送):地獄 1944-45
ドイツと日本が、戦争に入っていった経緯を描いている。この中で印象に残った部分をまとめておく。
1. チャーチルの英断 リーダーとしての大前提
チャーチルは、第二次世界大戦で、ナチスドイツとの宥和を断固と拒否した。当時ヨーロッパでますます力をつけ自国への侵略さえもありうるドイツに対し、徹底抗戦の構えをとったのである。これは国を救う英断であった。
英国を就任当初、ダンケルクの戦いでが起こった際、ドイツ軍に囲まれた自国軍を救うため、英国全土から民間船をかき集め、それを使って30万以上の自国軍兵士を英国に連れ戻すことに成
功した。判断力、実行力、味方の兵を大事にする思想が、かれを偉大にした。かたやドイツのヒトラーは、ロシアを攻めた場合、攻めあぐねた結果冬が来てしまった際、彼らを守るため撤退するという判断や、味方の軍を助けにおくるということをしなかった。また日本は戦争終盤になると、苦境に立たされ、特攻隊を組織した。4000人もの特攻兵を死に追いやった。ここに日本、ドイツのリーダーの資質の欠如、特に人間性という大前提の欠如が如実に見られる。
2. テニアンスクールの開校 日本の人間性の圧倒的な敗北
・アメリカは、日本本土攻撃の足掛かりとしてサイパン、テニアンを陥落させたあと、多く生き残った日本人の子供達のために、スクールを開いた。そこで、子供たちは、戦後の民主教育を先取りして受けることになったという。それまで軍事教育を受けてきた子供たちは、「先生が優しかった」と述べている。映像では、のびのびと体操をするところ、それをアメリカ人の士官が嬉しそうに見ているシーンが流れた。そこから本土攻撃の爆撃機が飛び立つのだが、そのパイロットたちは、本土爆撃から戻ってきて、子供たちの笑顔を見るのが慰めだったという。そして、再び爆撃にいく際に、その同じ人間を殺しに行くために心を引き裂かれる思いがしたという。
ここで驚くべきことは、戦時中に、敵国の子供たちに、民主教育を施すことができるアメリカ人の懐の深さ、愛の深さである。逆の状況になったときに、日本人はまずそのようなことはできなかったであろう。人間性において、日本は圧倒的にアメリカに敗北していたのであり、負けることは当然の帰結であった。
3. 戦後の手のひら返しがなぜ起こったか。
戦争が終結して、アメリカ人の軍人が街に入ってくると、日本人は手のひらを返すように彼らに擦り寄った。子供たちは、ガムやチョコレートをくれる軍人にたかり、若い女性は、洗練されたアメリカ人の軍人に言い寄った。一方、戦争の前線で戦っていた日本兵が引揚者として戻ってくると、ただでさえ貧しい中にさらに口が増えると、彼らに冷たい目が注がれたという。そして、元兵士であった人間たちは、その社会の変わりように戸惑い、絶望し、犯罪に手を染めるものも多かったという。
さて、私は以前この話を聞いた時、「日本人の手のひら返しはひどい。自分らのために戦ったものをそんな扱いをするなんてありえない。」と思った。しかし、今回、映像を見て少し考えが変わった。その理由は、ある日本人の証言である。その人が言ったことには、「戦争のことを思い出すと、まず思い出すのが、恐ろしい地域の有力者の顔だった」という。この言葉が表すことは、社会が戦争一色に染まっていった際に、同調圧力が生まれ、社会全体が監視社会になってしまったということである。普通に暮らす民は、戦争を心から求めていたわけではなかったのだと思う。戦争により、息子を失った母親が、その息子の死を知らされた際、地域の有力者から、英雄扱いされ、続け様にそれをされることにより、涙を流すことができなかったという。ある特攻隊員は、「お国のために死ぬのではない、兄弟姉妹や母親のために死ぬ」とはっきりと手記を残している。戦争の残虐さ、痛みを知る人間は、少なからずいたにもかかわらず、地域の有力者による圧力により、本当の気持ちを出せなかったのである。沸々とたまっていた不満、戦争への嫌悪感が、戦争終結してアメリカ人がもたらした自由・民主主義によって、吹き出した。それが、「日本人の手のひら返し」の内実だったのである。
まとめ
同胞の生命を徹底的に守らず、捨て駒のように扱う国、民が抑圧され、見せかけの成功、勝利に固執し、自分らの名声、地位を求めることを続けた人間がリーダーになってしまうような国が負けるのは、至極当然のことである。ここから、教員として、どのような教育がこの国において必要なのか、それを常に考え続けていかねばならない。
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